表現者にとって「無駄」と「愛すべき無駄」の区別をつける力こそセンスであり、磨くべき才能である(Yuuui)

Hello,World!
Yuuuiです。

私は先月から細々とブログを書き始めたわけだが、最近考えていることがある。

見られることを当然とした「魅せる自分」であるべき、という思想

昔は自分の思いの丈を紙に書いて置いておくだけのものだった日記が、今や世界中どこからでも見られる本棚に置くことができる。しかも気軽に。
部屋にこっそり隠しておいた日記帳をなぜかお母さんが見つけて読んでいた話はよく聞くけど、今では見せるのが当たり前になった。親には「見ないでよ!」と激おこぷんぷん丸していたにもかかわらず、だ。

誰もが「作品」として自らの考えを発信することが当然のことであり、「こうしたらPVが稼げる」といった指南書まで探せばすぐ出てくるし、至れり尽くせりである。もはや「見られるもの」として作ることが常識となっている。だから、どの記事を見ても無駄がない。質がある程度揃えられている。それ自体はすごいことである。インターネットがなかったらあり得なかった現象だろう。しかし、だからこそ、なんだろうな…「余白がないな」と思ってしまう。

徹底的に無駄が排除され、スマートにまとまっているからストーリーが非常にわかりやすい。こういったことをしている人が少ないうちは、人もついてきやすいだろう。しかし、今はもうそういった成功例に続きたい人は後を立たず、キーワード検索をするとSNS上には似たようなプロフィールのアカウントがごまんと出てくる。もうこうなったら、指南書は使い物にならない。オリジナリティを出し差別化を図るためには、自分で指南書を作らねばならない。

誰かに対して親近感や共感を覚えるときはその人の「隙」を感じたときだろうと思う。しかしその「隙」すら演出されたものである今では、なんというか却ってリアリティがなく、余白がないと感じてしまう。人間ってそんな形式化された存在だったかな、と私は自分と照らし合わせて考える。こういうところが私のよくないところだとわかりつつも、考えないではいられない。

「セルフブランディング」において重要なのは「必要なことだけをより分ける」ことはもちろん、「あってもなくてもいい」の線引きをどう定義し、どう表現するか。それが鍵のように思う。

誰もが「発信者になれる」は本当か?

きっと今のネットは「専門学校化」してるのでは、と思う。「〇〇をすれば〇〇になれます」という情報で溢れている。それ自体は悪いことではなく、むしろさまざまな事情で学校に通えない人やちょっとだけ興味がある人にとっては挑戦するためのハードルが下がるのでよいことだと思う。しかし、結局は自分の道は自分で作るしかないのだ。これは私が声優養成所に通っていた経験から身に沁みて感じたことだ。
舗装された道には当然ながら人が集まる。そこを歩いて行って成功できる人は数少ない。誰も行かないようなけもの道をかき分けて、試行錯誤を繰り返しながら自分で掘り出した宝石にこそ、人は魅了されるのではないか、と思う。なぜなら、自分ではできない、できなかったから、だ。突き詰めねばならない本質的な価値というのはつまるところ、変わらない。

だったら、私にできることはなんだろう?私にしか行けない道はどこだろう。

迷いながら、ときに引き返すこともあるかもしれないけれども、前に進んでいきたいと思う。

Photo:MasashiWakui

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